とり日記

日々思ったことの備忘録。

会話が嫌いになった理由

私は人と会話するのが嫌いな人間だ。


職場の同僚とは極力雑談なんてしたくないし、長い付き合いの友人とも億劫なことがある。実は家族との会話すら嫌々やっているところがあるくらい、人との会話が嫌いだ。


じゃあなんで私は、こんなにも人と話すのが嫌いなのだろう。

と、ふと思った時に、そういえば嫌いな理由を考えたことがなかっとことに気がついた。


なので今ここで、自分なりに分析をしてみようと思う。


問い:何故私は人との会話が嫌いなのか。


答え1:否定されるから(同意しなければならないから)

・・・脳内に、反射的に出てきたのがこれだった。
なんだろうこれ。自分でもよく分からない。過去に何かトラウマでもあったのだろうか。

ちょっと過去の出来事を思い返してみる。

・・・そういえば、一つ思い当たったことがあった。
小中の多感な時期に親しくしていた友人の中に

「私の嫌いなものを好きになるなんて信じられない」

というタイプがいた。

今でいう「地雷絶対許せないマン」と言うべきだろうか。

自分が嫌いなものは視界の端にも入れたくないし、存在すら消したい。ましてやそれを楽しんでいる人間なんて許しておけない。そういう、ある種の潔癖な人物だった。(子どもの未熟さならではかもしれない)
私が好きなもので彼女の気に食わないものは、徹底的にこき下ろされていた、記憶がある。


まぁ、よくある話ではあるのだけれど。
ただ子どもの時に十年近くそれをやられると結構堪える。(小学校一年から中学三年の途中まで、毎日そんな感じだった。・・・我ながらよく耐えたな)


彼女と会話するとき、私は自分の趣味だとか好みだとかを一切話さなくなった。
下校の三十分間は彼女の独壇場で、ひたすら彼女に合わせて、話を聞いているだけだった。


・・・十年以上前の記憶ですっかり忘れていたつもりだったけれど、今掘り返したら、あの時のひたすら自分を押し殺して我慢している感覚がまざまざ蘇ってきて、ちょっと戸惑っている。むかーしのことなのに、意外とあとを引いているものなんだなぁ・・・。


そういえばもう一つ、芋づる式に思い出したことがあった。

上記の人物とはまた別なのだが、ポロっと漏らしたことが物凄い勢いで広がった上に、とんでもない尾ひれはひれがついて、私のところに戻ってきたことが何回か、ある。

例えるなら、「今度家族で遠出する」という話題が何故か、「ヨーロッパに幾つか別荘があって、夏休み中はそこで過ごしている」になっていたりだとか。


風邪を引いて拗らせたので一週間休む、と友人に伝えたら、何故か「父親が事業に失敗して先週一家ごと失踪した」になっていたりだとか。(週明けに学校に出てきたら別の友人にやたらと驚かれた)


まぁ他にも出自だとか、家族構成とか家庭環境とか、いろいろと訳の分からない話が出回って、辟易した記憶がある。

カオスな伝言ゲームがあって、いちいちその内容を否定する度に「ああ、またか」とげんなりして、「やっぱ人と会話するなんてろくでもねぇや」という考えが強化されていった覚えも、ある。あるというか、思い出した。


今思えば。


この二件の出来事は、話す相手が悪かったのだと思う。不運だった。相手を見る目がなかったし、他にちゃんと対話できる人を探す目も、備わっていなかった。


おまけに途中で逃げることも知らないで、長年にわたって、ちょっと癖のある人や、とんでもなく思い込みの強い人に振り回されてきたお陰で、私には


「人と会話することは苦しくて辛い上に、面倒くさい厄介ごとしか生まない、何一つメリットがない行動」


という思い込みが、出来上がってしまったのだと思う。


何より厄介だったのは、今の今、分析するまで、自分にそんな思い込みがあるなんて、何一つ自覚していなかったことだ。


なんなら、私の会話嫌いは生来のもので、生まれ持った気質だから治しようがないだろうとすら思っていた。


会話をする度に得も知れぬ不快感があって、長いことそれに苦しんできたのだけれど。
「理由はさっぱり分からない、だけど、こんなに苦しいってことは、やっぱり私には会話は向いていないし、無理ってことなんだな」と思ってきたのだけれど。

・・・普通に理由はあったんだなぁ、とちょっと、自分にびっくりしている。


まぁ、自覚したからすぐに会話が好きになれるかと言ったら、そんな訳はないんだけど。

でも、「特に理由もないのに会話が嫌いな私は、人として欠陥品なんだな」という自責はなくなったので、少なくともそれは、とても良いことだな、と思う。