禍福は決めがたし
「あの人は今現在こういう立場であって、だから不幸である」
という物の見方を常にしていることに、今日唐突に気がついた。
「あの人はイライラしている。不幸である。私がなんとかして幸せにしてあげなければ」
「あの人は悲観的になっている。不幸である。私が悲観的な方向を正して幸せにしてあげなければ」
「あの人は悪口を言っている。不幸である。悪口の話を逸らして幸せにしてあげなければ」
・・・こんなことを、無意識のうちに考えながら、人を見ている自分に、突然、前触れもなく気がついた。
実際の人物でも、架空のキャラクターでも、不幸な人を見ると心が苦しくなっていた。
どうしてこの人はわざわざ辛い苦痛を味わっているんだろう、自分から不幸になっているのだろう、と、息苦しい、切羽詰まるような、胸詰まるような心地になっていた。
そういう感覚がどうも耐えられず、イライラしているその人を宥めたり、悲しそうな人や混乱している人の話を聞いて、慰めたりしていた。架空のキャラクターならば、彼あるいは彼女の境遇に共感して、同情して、胸を傷ませたり、酷いときは鬱っぽくなるまで考え込んでしてしまったり、した。
で、今日ふと気がついたのは。
常日頃怒ったり、嘆いたり、悲しんだりする人を、私は「不幸な境遇にある人」と定義して、カテゴライズしてきたけれど。
私はその人たちを、「不幸」と決めることで、その人たちが「幸福である」ということを否定していたのかな、と思う。
その人たちという枠の中には、過去の自分を含んでいる。
私は過去の自分を、不幸な子どもだったと思っていた。大変で過酷な状況で、子どもの頃の私のなんと悲惨で、可哀想なことだろう、と思っていた。みじめで不幸せな子ども時代だった、と。
確かに大変な子ども時代だったと思う。過酷なこともあったし、辛くて悲しくて苦しいことも沢山あった。
ただ、不幸だったかと言えば、そうではなかった。
面白い本を図書館から見つけて時間も忘れて読み更けったり、思いがけず綺麗な石を手に入れたり。面白半分に書いていた二次創作の短文を同級生が気に入ってくれて、素敵なイラストを書いてもらったり。他にも、たくさん。
そういう、過去の私が幸せだったことを全て否定して、今の私は「私の過去はとても不幸だ」と言い切ってしまっていた。
辛くて悲しい過去の私が幸せだ、ということを絶対に認めようとしなかった。
人の幸福を否定すると不幸になるのかな。