とり日記

日々思ったことの備忘録。

継続は力なり

どうせ自分は下手だから。


という理由で止めようとすることがある。


例えばピアノを弾くことだとか。歌うことだとか。絵を描くこととか、アクセサリーを作ることとか。創作料理とか。
あるいはダンスとか、英語のスピーチとか、文章を書くこととか。洋服を作ることだとか。


まぁ、何でもいいのだけれど。


自分が好きで、日頃の趣味として心を傾けているものの中には、それらを達者に出来てよく目立つ人や、大勢の人に尊敬されたり、注目されている人がいたり、する。それは自分の近くの人かもしれないし、ネットの、スマホの画面越しに知った誰かかも、しれない。


そういう人たちと自分を比べてしまうと「ああ、なんて私のやっていることはしょうもないのか」とげんなりしたり、自己嫌悪したり、仕舞いには「どうせ私のやっていることなんてあれに比べたらどうしようもない」なんて思ってしまったり、する。いっそこんな下らないことやめてしまえと、その趣味を投げ棄てようとしてしまう。


そういう時に思い出したいのは、

「今は下手だけれど、将来はどうか分からない」

ということ。

今の私は確かに、彼らのように上手くないかもしれない。ネイティブの発音は出来ないし、彼女のような美しいイラストは描けないし、あの子のような複雑な構成の脚本は作れない。あの人のようにいろんな人を夢中にさせる小説なんて全然、書けない。


でも、だ。


それでも自分なりに楽しんで、自分のペースで続けていけば。
それを何年も何年も積み重ねていけば。

一番最初の「へたくそな初心者の自分」の位置とは違う、その時では想像も出来なかった景色が見れるようになる、と思う。


昔から趣味で二次創作の小説を書いていて、恐らく十年以上は続けている、と思う。


その間ずっと書き続けていた訳ではなく、私生活が忙しくて書かない時期もあったし、長く書いている割にちっとも上達しないことに嫌気が差して、やめてしまったことも、ある。


まぁやめたと言っても3ヶ月くらいで、結局はまたやり始めてしまったのだが。


この前たまたまメールの整理をしていたところ、五年以上も前に書いた小説のデータが出てきた。


書いた当時は気に入っていて、自分の中では一番出来がいい、とも思っていた。この後にも幾つか書いていたけれど、結局どれもこの話を超えるものは出来ないなぁ、とも、勝手に思っていた。


五年以上放置してから読み直してみれば、随分読みにくくて驚いた。


実は、話の流れで知人にその小説を読んでもらうことになったのだけれど、あまりに読みにくいので手直しをしたくらいだ。(それでも直しきれなくて諦めた)


私の頭の中では、その話は

「小説の腕のない私からたまたま生まれた傑作」

とずっと思っていた作品だった。

暫くの間、それを超せない呪いで苦しんでいたくらい、ずっと「私がなんとか書けた傑作」の位置を占めていた。


でも、今の私が読み直したら、その話はどう見ても


「まだ書き慣れない自分が書いた、読みにくくて分かりにくい話」


でしかなかった。


それに、思っていた以上に話が短くて驚いた。
自分の記憶では五、六千字くらい書けていた気がしたのに、実際の文字数はなんと、四千字いくかいかないか、だった。


今の私は一万字はゆうに書ける。(話が面白いかは別として)

オフ活動で、八万字強の小説本を出したこともある。
(面白いかどうかは本当に、別として)


私は自分のことを、なんにも成長してないと思っていた。五年前から進歩しない人間だな、と。


でも違った。
五年前の私は一万字どころか、五千字足らずの物語を1ヶ月以上かけて、四苦八苦しながら書き上げていた。
あの時の私に「百ページ超えの小説本を出すことになるよ」と教えても絶対に信じないと思う。

1ヶ月で二千字書けるか書けないだった人間が、まさか締め切り間際にデータが一部消えてしまって、1日で一万字を書き直すようになるだなんて、どう信じろと言うのだろう。


今の私が下手だとしても、将来の私がそうであるという保証は、ない。

続けた先が「上手な人気者」かは知らないけれど、少なくとも間違いなく、今とは全然違った景色を眺められんじゃないかな、と思う。