とり日記

日々思ったことの備忘録。

悪癖の治し方

悪癖だと思っていても、なかなかやめられないことがある。


ついやってしまうのが、ネットでダークな記事を読んでしまうこと。
例えば過去の紛争地域で起きた陰惨な出来事だとか。どこかのご家庭で繰り広げられた、ご夫婦間の修羅場だとか。猟奇的な事件を引き起こした犯人の生い立ちだとか。誰かが不運にも出会ってしまったらしいオカルトの類いであるとか。


そういう、こう言うのも何だがスリリングで、五感に訴えやすい記事を、休日の朝から夜まで読み込んでしまって、神経を冴えさせてしまう。そんな愚かなことを、度々してしまう。


どうしてこの悪癖を繰り返してしまうのだろう。

ちょっと分析することにしてみる。


原因1:簡単に読める


これらの記事を私はスマホで読んでいる。

これがまずいけない。だって、スマホでネットを見るのはあまりに簡単だ。スイッチを入れて、画面をタッチして、ブラウザアプリを立ち上げて、検索。それだけ。

場合によっては検索すら必要ない。親切にもアプリ側で私の興味を推し量って、「こんな記事はどうですか?」とピックアップしてくれさえする。これでは、読まない方が難しい。


原因2:スリルでストレス解消をしている


これは何かと言うと、残酷で無惨な出来事だとか、背筋がぞっとするような場面だとかを見ることで、私はある種のカタルシスを得ている。ぞっとしたり、嫌悪したり、はらはらしたり。
涙を流すために感動的な映画を見るのにも、似ているかもしれない。


画面の文字を読むことで、私は私以外の誰かが体験したことを、追体験しているのだと思う。


銃口を向けられ今にも殺されそうになっただとか、訳の分からないものにまとわりつかれ、精神を病んでいく様だとか。それらの描写に体感すら覚えながら、息詰まるようなスリルを楽しんでしまっている。


楽しむ、というのはつまり快感を得ているということだ。
快感というのは習慣性も孕んでいて、だから後から絶とうとしてもなかなか出来ないことが多い。アルコール然り、煙草然り、賭博然り、薬物然り。

多分私も、中毒になっているのだと思う。スリル中毒という奴だ。


原因3:安心材料にしている


自分よりもひどい目に遭う人を見て、「ああ私はあの人たちよりはましなんだな」と、安心材料にしてしまっているところがある。

要は、他人と自分を比較している。あの大変な目に遭う彼らよりも、今の私の立場はまだ恵まれている。なら私は、少なくともあの人たちよりは幸せな人間だ、と。

・・・まぁこれって何にせよ、他人と自分を見比べている訳で。

「あの人は私よりも幸せそうでずるい」

という心境と間逆なようで、実は全く同じものだというのを、自分で実感している。
他人の不幸と比べて自分の方がましだと思うのは、自分を弁護しているようで、実はかなり精神を追い詰めさせる、危ういものの見方だというのが、最近の私の判断だ。


さて、ここまで書いて気付いたのは、悪癖は悪癖なりに私にとってメリットがあるということ。むしろ、メリットがなければ悪癖は悪癖足り得ないのかもしれない。

気付いたメリットは以下の通り。



メリット1:スリルという快感がある

メリット2:他人と比べることで安心感を得られる

メリット3:スマホを見るだけで容易に手に入る



言い換えれば、この3つのことを避けていけば、悪癖は続かなくなるということだ。


ではどうすれば3つのメリットは避けられるだろう。


根本的に効果が出そうなのは、スマホを使わないことだろうか。いっそスマホを手放してしまうというのはどうだろう。


・・・いやでもこれ間違いなく、多方面に甚大な影響が出るような。電話とメールをガラケーに戻すというのも、このご時世、時代から真っ向立ち向かい過ぎてる気がする。流石にそこまでアグレッシブなことはしたくない。
スマホを使わないだとか、使いにくくするのはどうも、そもそもの連絡手段としての役割に差し障りが出てしまう。この辺はおいおい考えた方が良さそうだ。

ということで、検討したいのは「快感」と「安心感」


これはどちらも、代替品を見つけることで対応してはどうだろう。快感を得られるもの。安心感を得られるもの。何かあるだろうか。

例えば読書か。散歩をして気を紛らわせるだとか。いっそ勉強をガッツリして、自信をつけて安心感につなげるだとか。


・・・うーん、例としてはいくつか出てきたけれど。どれも今の悪癖と比べると、手軽に快感や安心感を得られるものではないなぁ。


かといってお酒だの煙草だの、パチンコだのは、また別ベクトルの依存症になってしまう、気がする。というか間違いなくそうなる自信がある。


・・・ふと、思ったのだが。
もしかしたら。


手軽な快楽や手軽な安心感を得ようとすること自体が、悪癖を招いているのかも、しれない。


それに、快楽や安心感というのは、本当はもっと淡くてほのかなものなのかもしれない。

今は悪癖で得られている、毒々しいくらいに色濃い快楽や安心感に、文字通りに毒されてしまっているけれど。

だから、読書だの運動だの勉強だのでは、簡単には安心感や快感を得られなくなってしまっているけれど。

本当は、長く楽しんで味わっていけるものは、すぐには快楽も安心感も、得られないものなのかもしれない。


・・・まぁ、簡単に手に入るものほどすぐに飽きるもんなぁ。
それとはちょっと違うかしら。

でもなんか、これが一番近い答えなような気がする。

会話が嫌いになった理由

私は人と会話するのが嫌いな人間だ。


職場の同僚とは極力雑談なんてしたくないし、長い付き合いの友人とも億劫なことがある。実は家族との会話すら嫌々やっているところがあるくらい、人との会話が嫌いだ。


じゃあなんで私は、こんなにも人と話すのが嫌いなのだろう。

と、ふと思った時に、そういえば嫌いな理由を考えたことがなかっとことに気がついた。


なので今ここで、自分なりに分析をしてみようと思う。


問い:何故私は人との会話が嫌いなのか。


答え1:否定されるから(同意しなければならないから)

・・・脳内に、反射的に出てきたのがこれだった。
なんだろうこれ。自分でもよく分からない。過去に何かトラウマでもあったのだろうか。

ちょっと過去の出来事を思い返してみる。

・・・そういえば、一つ思い当たったことがあった。
小中の多感な時期に親しくしていた友人の中に

「私の嫌いなものを好きになるなんて信じられない」

というタイプがいた。

今でいう「地雷絶対許せないマン」と言うべきだろうか。

自分が嫌いなものは視界の端にも入れたくないし、存在すら消したい。ましてやそれを楽しんでいる人間なんて許しておけない。そういう、ある種の潔癖な人物だった。(子どもの未熟さならではかもしれない)
私が好きなもので彼女の気に食わないものは、徹底的にこき下ろされていた、記憶がある。


まぁ、よくある話ではあるのだけれど。
ただ子どもの時に十年近くそれをやられると結構堪える。(小学校一年から中学三年の途中まで、毎日そんな感じだった。・・・我ながらよく耐えたな)


彼女と会話するとき、私は自分の趣味だとか好みだとかを一切話さなくなった。
下校の三十分間は彼女の独壇場で、ひたすら彼女に合わせて、話を聞いているだけだった。


・・・十年以上前の記憶ですっかり忘れていたつもりだったけれど、今掘り返したら、あの時のひたすら自分を押し殺して我慢している感覚がまざまざ蘇ってきて、ちょっと戸惑っている。むかーしのことなのに、意外とあとを引いているものなんだなぁ・・・。


そういえばもう一つ、芋づる式に思い出したことがあった。

上記の人物とはまた別なのだが、ポロっと漏らしたことが物凄い勢いで広がった上に、とんでもない尾ひれはひれがついて、私のところに戻ってきたことが何回か、ある。

例えるなら、「今度家族で遠出する」という話題が何故か、「ヨーロッパに幾つか別荘があって、夏休み中はそこで過ごしている」になっていたりだとか。


風邪を引いて拗らせたので一週間休む、と友人に伝えたら、何故か「父親が事業に失敗して先週一家ごと失踪した」になっていたりだとか。(週明けに学校に出てきたら別の友人にやたらと驚かれた)


まぁ他にも出自だとか、家族構成とか家庭環境とか、いろいろと訳の分からない話が出回って、辟易した記憶がある。

カオスな伝言ゲームがあって、いちいちその内容を否定する度に「ああ、またか」とげんなりして、「やっぱ人と会話するなんてろくでもねぇや」という考えが強化されていった覚えも、ある。あるというか、思い出した。


今思えば。


この二件の出来事は、話す相手が悪かったのだと思う。不運だった。相手を見る目がなかったし、他にちゃんと対話できる人を探す目も、備わっていなかった。


おまけに途中で逃げることも知らないで、長年にわたって、ちょっと癖のある人や、とんでもなく思い込みの強い人に振り回されてきたお陰で、私には


「人と会話することは苦しくて辛い上に、面倒くさい厄介ごとしか生まない、何一つメリットがない行動」


という思い込みが、出来上がってしまったのだと思う。


何より厄介だったのは、今の今、分析するまで、自分にそんな思い込みがあるなんて、何一つ自覚していなかったことだ。


なんなら、私の会話嫌いは生来のもので、生まれ持った気質だから治しようがないだろうとすら思っていた。


会話をする度に得も知れぬ不快感があって、長いことそれに苦しんできたのだけれど。
「理由はさっぱり分からない、だけど、こんなに苦しいってことは、やっぱり私には会話は向いていないし、無理ってことなんだな」と思ってきたのだけれど。

・・・普通に理由はあったんだなぁ、とちょっと、自分にびっくりしている。


まぁ、自覚したからすぐに会話が好きになれるかと言ったら、そんな訳はないんだけど。

でも、「特に理由もないのに会話が嫌いな私は、人として欠陥品なんだな」という自責はなくなったので、少なくともそれは、とても良いことだな、と思う。

人見知りのなおし方

「ご本、出しときますね?」



という本がある。

オードリーの若林さんが司会のテレビ番組を書籍化したもののようだが、あくまで私はインタビュー本だと思って読んでいるのだけれど。(惜しくも番組を観ていなかったこともあるし)


その中で、人見知りについて、海猫沢めろんさんという作家さんがこう言っていた。



「人見知りって経験値の問題で、たくさん人と会っていると治っちゃうんですよ」



・・・なるほど。


人に慣れていないから人見知りになる訳で、数をこなして慣れていけば治るものだ、ということだろう。

まぁ、確かに真理だとは思う。

私は多分、程度の重い人見知りだけれど(その上重度の人間嫌いだ)、接客業をいくつかこなし、現職も窓口業務をやっているせいか、以前ほどの人見知りは(表面上は)しなくなったなぁ、と思う。

仕事上、たくさんの人と関わったお陰で、こういう場合どうすれば良いか、何を言えば良いか、というデータの蓄積がある。だから勤務中、大抵のことは対処できるようにはなった、と思う。勤務中に人見知りを起こすということもまず、あり得ない。


ただし。


それで人見知りがなおったかと言えば全くそれは別の話で。


プライベートの私は、以前と変わらずひどい人見知りのままだ。


初対面の人間と、まともに会話が出来ない。
下手をすれば挨拶すら出来ず、良いところが無言で会釈。しかも無表情で。無愛想なことこの上ない。
話せば話したで、相槌も打たず聞いているか、一方的に捲し立てるかのどちらかで、控えめに言ってもやばい奴だ。


素の自分では、初対面の人間とまともなコミュニケーションはまず、難しい。


なのでつい、仕事モードのスイッチを入れて対応してしまうのだけれど、仕事モードの私はある種の全自動運転だ。別人格の反応というか。だからあまり込み入った話が出来ないのだ。難儀なことに。


素の私は、他人と会うという経験値が圧倒的に不足している。だからいまだにプライベートでは、人見知りをしてしまうのだ、と最近ようやく気がついた。


なのでここのところ、積極的に人と関わることを増やすようにしている。

といっても些細なことだけれど。例えば店員がよく話しかけてくる店舗に行くこととか。(メジャーなのはスタバだろうか)

あとは、最近治療のために通いだした接骨院も、コミュニケーションの取り方のいい練習になっていると思う。

接骨院というのは、自分の体のどこそこに痛みがあるだの、自宅での予防はどうすればいいかだの、どうしたって施術する側と会話をしないと成り立たない場所だ。

だから否応なしにコミュニケーションを取らざるを得ず、それが逆に訓練になっているな、と思う。

・・・いや、接骨院で言語聴覚のリハビリをするとは、まさか思ってもいなかったけれど。まぁどんなものでも活用出来るものはしていこう。

全ての物事の前提条件を「出来る」としてみる試みについて

全ての物事の前提条件を「出来る」としてみたら、どんな気分になるだろう。

ここのところずっと、鬱々した気分になっているので、気分転換にちょっとした思考実験を試みようと思う。

以下に思い付くまま、いろいろと言い換えていく。

例えば。


料理をするを「料理が出来る」

歌を歌うを「歌うことが出来る」

エクセルを使うを「エクセルが出来る」

小説を書くことを「小説を書くことが出来る」

お金を使うことを「お金を使うことが出来る」

病院に行くことを「病院に行くことが出来る」

電話を取ることを「電話を取ることが出来る」

本を読むを「本を読むことが出来る」

お酒を飲むを「お酒を飲むことが出来る」

休みの間ずっと布団のなかでぐだぐだするを「休みの間ずっと布団のなかでぐだぐだすることが出来る」


・・・ものは試しでやってみたけれど、想像以上に気分がいい。精神衛生がてきめんに良くなっている、実感がある。


それじゃあ今度は、ネガティブなことも言い換えてみよう。やろうとしているのにやれないとか、出来ないこととか、出来るのにやろうとしないこととか。
さて、これはどんな気分になるだろうか。

例えば。


英語の勉強をしないことを「英語の勉強が出来る。今は勉強する時間を取っていない」

転職出来ないことを「転職出来る。今は現職に勤務し続けることが出来ている」

独り暮らししていないことを「独り暮らしは出来る。今は家族と過ごすことが出来ている」

オリジナル小説が書けないことを「オリジナル小説を書くことが出来る。完成に向かって進むことが出来ている」

休日に寝込んでしまって外出出来ないことを「休日に活動出来る。今はやらないと選択することが出来ている」

・・・文章にすると若干くどくなるな。でも効果は感じられている。さっきまであった、袋小路のどん詰まりになるような絶望感を、今は感じていない。

かと言って、無理やりポジティブを目指しているような感覚もない。
地に足が着いているというか、思考がちゃんと地面についている確かな手応えがある。多分、自分のベースにある考え方を、自分の言葉で書き換えているからだと思う。ポジティブだけれど他人のお仕着せの言葉では、ここまでしっくりこない。現に今までこなかった。


全ての物事の前提条件を「出来る」にしてみる。うん、これはなかなか良いツールのようだ。しばらく続けてみよう。

習慣のやめ方について

休日のネットサーフィンの習慣をやめよう、と思っている。

やめたい理由は以下の通り。

・ネサフに夢中になるあまり、片付けたかった用事を忘れてしまう。(銀行の窓口に行くこととか、税務署で還付の手続きをすることとか、仕事上必要なものを買いに行くこととか)

・長時間同じ体勢を取っているため、首と肩が痛むようになった。

・画面を凝視するので視力が落ちた。

・眼精疲労からくると思われる頭痛が多くなった。

・疲れるまでネットを見るせいで、やりたいことが出来ない。

・ネットサーフィンで午前中の時間を丸々使いきってしまい、午後から出ようとするも、自己嫌悪で動くのが億劫になってしまう。


ざっと書き出したがこんなところ。・・・最後の項目だけはちょっと違うような気もするけれど、まぁいい。


次に、どうして私は休日になるとネットサーフィンをしてしまうのか。
要因と思われる心当たりを以下に書き出していく。


1 ストレス解消。不安なことや、気分の悪いことから気を紛らすのに、スマホでネットを見るくせがついている。

2 朝、スマホの目覚ましで起きる流れで、そのままネットを見るくせがついている。

3 今二次創作ではまっているものがあり、見逃しがないように頻繁にPixivで新着作品を確認している。
また、とらのあな等の各種同人誌通販サイトで、目当ての同人誌が入荷していないかチェックするため、頻繁にスマホに触れている。

4 空き時間があるときの暇潰しの手段が、ネット閲覧になっている。

5 長時間トイレにこもる時に、スマホを持ち運んでいる

6 仕事中以外のほとんどの時間で、スマホから肌身離さないでいる。


・・・ざっとこんなものか。
若干内容が被っている気もするけれど、このまま進めることにする。



書き出した要因に、一つ一つ対策を考えていく。

1について

ネット以外のストレス解消法を見つける。
代替案になりそうなものを以下に書き出す。

kindleアプリで本を読む

・ブログの記事を考えたり、小説のネタを考えたりする

・散歩する

・軽い運動をする

・机の中の片付けをする

・料理する

・誰かと雑談する

・録り溜めているドラマや映画を消化する

・ゲームをする(スマホ以外の)

・音楽を聞く(YouTubeやニコ動など、ネット回線を使うものは除く)

スマホを置いたまま外出する

2について

目覚まし時計を購入し、スマホのアラームは使わないようにする

3について

Pixivを見る時間帯と、時間を決める。タイマーをかけて、その間だけ見る。
通販サイトは、朝昼晩の食事の前に確認する。それ以外は見れないようにネット接続を切る。


4 について

1に挙げたどれかを行う。

5 について

持ち込むものを本にする。(あるいはkindlepaperにする)

6について

スマホを持ち歩かない


・・・書き出してみて思ったけれど、なんかところどころ修行僧みたいだな、これ。

まぁ全部一度にやるのは間違いなく無理なので。

とりあえず明日の昼休みは、思いきってスマホを置いて、近くのコンビニまで行ってこようと思う。

不安を売る商売は存外多い

成長しない人間は時代から取り残される、らしい。


今やっている仕事はAIにとって代わられるから、それしか出来ない人間は最下層になるらしいし、

将来の年金はほとんどもらえる訳がないから、今働いている世代は八十才になっても働かなければならないらしいし、

日本語はマイナー言語だから、英語が出来なければ将来生きていくのが難しくなる、らしい。


よく聞く、将来の絶望的な観測は、人を色んなことに取り組ませる。


TOEICの勉強だとか、異業種との交流だとか、iDeCoやNISAを使っての資産運用だとか、仮想通貨だとか、月五万円稼ぐことを目標に、副業に手を出すこと、だとか。



成長しない人の将来は亡きものと同じ。
イコール、今やっていることしかやらない人は、将来生きていけない、とも言い換えられる訳で。


だからそうならない為に、今の自分ではないものになろうと努力を自分に課す訳だけど。


じゃあそもそも、その将来って何なんだろう。


よく聞く、暗い未来予想図は

「今と同じことしかやらないお前は、いずれこうなりますよ」

と私に語りかけてくるけれど。

そもそも、そう定義したのは誰なのだろう。
誰がそう決めたんだろう。


色んな学説とか、本とか、ブログとか、有名な誰かがまことしやかに語っているけれど。


「◯◯国では国民の大半が二か国語以上操る」とか「◯◯では資産運用は当たり前」とか「三十歳なら普通月給は◯◯円、そうでないなら転職してキャリアアップするのが当たり前」とか。色んなこと言っているけれど。


じゃあその人たちの語る「将来」に踊らされて、右往左往して、疲弊して、不安になっている、「今」の私って、何なんだろう。


不安って、強烈な力だな、と思う。
人を行動に移させもするし、人を病ませて命を絶たせたりも、する。


昔の仕事で保険を売っていたけれど、売り口上をざっくりまとめるなら、全て

「貴方の将来◯◯なリスクがありますよ。今後のためにリスクに備えましょう」

だった。


就活生だった時、まぁなかなかの氷河期だったのだけれど、集団説明会の他に、セミナーの類いも豊富にあった。
エントリーシートの書き方や、試験の対策だとかのものから、中には就活生の心構えを語る、精神論的なものも結構、あった。
セミナー終了後に講師の著書販売とサイン会をやる、なんてものも。都道府県主宰のセミナーだったのだけれど。終了後、長蛇の列になっていた。結構高い本だったのに。


不安の渦中にある時は、自分がどこにいるかなんて分からない。
だから闇雲にもがく。そこにいて、それをやるのが当たり前だと思っている。だって辺り見渡せば、みんな同じことをやっているから。みんなもがくのが当たり前。だから私も同じようにする。

そこにいるから、それをやっている人しか私の目には映らない。


不安は強烈な力で、動機だ。他人を動かすには何よりの、取って置きのエネルギーだ。


自分の成長のため、なんて思ってやっていることの大半は、誰かの語る不安予想図に踊らされているだけ、なのかも。

継続は力なり

どうせ自分は下手だから。


という理由で止めようとすることがある。


例えばピアノを弾くことだとか。歌うことだとか。絵を描くこととか、アクセサリーを作ることとか。創作料理とか。
あるいはダンスとか、英語のスピーチとか、文章を書くこととか。洋服を作ることだとか。


まぁ、何でもいいのだけれど。


自分が好きで、日頃の趣味として心を傾けているものの中には、それらを達者に出来てよく目立つ人や、大勢の人に尊敬されたり、注目されている人がいたり、する。それは自分の近くの人かもしれないし、ネットの、スマホの画面越しに知った誰かかも、しれない。


そういう人たちと自分を比べてしまうと「ああ、なんて私のやっていることはしょうもないのか」とげんなりしたり、自己嫌悪したり、仕舞いには「どうせ私のやっていることなんてあれに比べたらどうしようもない」なんて思ってしまったり、する。いっそこんな下らないことやめてしまえと、その趣味を投げ棄てようとしてしまう。


そういう時に思い出したいのは、

「今は下手だけれど、将来はどうか分からない」

ということ。

今の私は確かに、彼らのように上手くないかもしれない。ネイティブの発音は出来ないし、彼女のような美しいイラストは描けないし、あの子のような複雑な構成の脚本は作れない。あの人のようにいろんな人を夢中にさせる小説なんて全然、書けない。


でも、だ。


それでも自分なりに楽しんで、自分のペースで続けていけば。
それを何年も何年も積み重ねていけば。

一番最初の「へたくそな初心者の自分」の位置とは違う、その時では想像も出来なかった景色が見れるようになる、と思う。


昔から趣味で二次創作の小説を書いていて、恐らく十年以上は続けている、と思う。


その間ずっと書き続けていた訳ではなく、私生活が忙しくて書かない時期もあったし、長く書いている割にちっとも上達しないことに嫌気が差して、やめてしまったことも、ある。


まぁやめたと言っても3ヶ月くらいで、結局はまたやり始めてしまったのだが。


この前たまたまメールの整理をしていたところ、五年以上も前に書いた小説のデータが出てきた。


書いた当時は気に入っていて、自分の中では一番出来がいい、とも思っていた。この後にも幾つか書いていたけれど、結局どれもこの話を超えるものは出来ないなぁ、とも、勝手に思っていた。


五年以上放置してから読み直してみれば、随分読みにくくて驚いた。


実は、話の流れで知人にその小説を読んでもらうことになったのだけれど、あまりに読みにくいので手直しをしたくらいだ。(それでも直しきれなくて諦めた)


私の頭の中では、その話は

「小説の腕のない私からたまたま生まれた傑作」

とずっと思っていた作品だった。

暫くの間、それを超せない呪いで苦しんでいたくらい、ずっと「私がなんとか書けた傑作」の位置を占めていた。


でも、今の私が読み直したら、その話はどう見ても


「まだ書き慣れない自分が書いた、読みにくくて分かりにくい話」


でしかなかった。


それに、思っていた以上に話が短くて驚いた。
自分の記憶では五、六千字くらい書けていた気がしたのに、実際の文字数はなんと、四千字いくかいかないか、だった。


今の私は一万字はゆうに書ける。(話が面白いかは別として)

オフ活動で、八万字強の小説本を出したこともある。
(面白いかどうかは本当に、別として)


私は自分のことを、なんにも成長してないと思っていた。五年前から進歩しない人間だな、と。


でも違った。
五年前の私は一万字どころか、五千字足らずの物語を1ヶ月以上かけて、四苦八苦しながら書き上げていた。
あの時の私に「百ページ超えの小説本を出すことになるよ」と教えても絶対に信じないと思う。

1ヶ月で二千字書けるか書けないだった人間が、まさか締め切り間際にデータが一部消えてしまって、1日で一万字を書き直すようになるだなんて、どう信じろと言うのだろう。


今の私が下手だとしても、将来の私がそうであるという保証は、ない。

続けた先が「上手な人気者」かは知らないけれど、少なくとも間違いなく、今とは全然違った景色を眺められんじゃないかな、と思う。