とり日記

日々思ったことの備忘録。

2018年8月12日(2)

咄嗟の判断って、難しい。

所々の理由による事故で電車のダイヤが大幅に乱れるというのは、悲しいかな、この日本では割りとよくあることだと思う。

なんとか運転再開したは良いけれど、大きなターミナル駅なんかだと、どこのホームに目当ての行き先の電車が乗り入れるのか、はたまたどれが一番早い発車なのか、見極めるのが非常に難しい。時刻表はまるで役に立たず、乗り換え案内は無意味。行き先を示す路線には「40分遅れ」やら「55分遅れ」だとかの表示が赤々と目立つ。
はて、あちらのホームが早いだろうか。はたまたこちらのホームか、あるいは・・・。あちらは早いがホームから人が溢れそう。こちらはまだ空いているが、発車の時間はどうやら先になるよう。はてさてどうしたものか。

昔の私はこういう時、人と同じことをしていた。
つまり、一番人が多いホームに向かい、長く形成された列に並んでいた。発車時間が一番早く、故に人がホームから溢れんばかりになっているにも関わらず。
どう見ても、一度に乗れるとは思えない人の量なのに。私が今から並んでも、とても乗れそうにない。乗れたとしてもとんでもなく混雑した車内で、座れもせずに一時間以上揺られる羽目になると、分かりきっている。

でも昔の私なら、間違いなくそこを選んでいた。
何故なら、安心だから。多くの人がそこにいるなら、多分、間違いないと思うから。自分で判断出来ないから、大多数の選び方を判断基準にしていた。

今の私は、そのとんでもなく混雑したホームは選ばない。
結局並んだのはその向かいのホームだ。人は多少空いているけれど、後発になるそれ。

選んだ理由は、空いているから、だけではない。そこのホームからは、目的地への電車が何本も続いて出ることになっていた。例え今並んでいるこの電車に乗れなくても、そのまま待っていれば後から来る電車には乗れる。一番混んでいたあのホームだと、そのまま待っていても暫く行き先の電車が来ない。乗りそびれてしまえば、また別のホームへ並び直さなければならなくなる。

そういう諸々の判断は、その時いちいち頭の中で考えていた訳ではない。ぱっといくつかのホームを見比べて、時刻表を眺めて、数秒くらいで決めた。その時の思考の経路を辿ったら長々しくなったけれど、判断を下したのはほんの一瞬だ。

私は長いこと、自分に判断能力がないと思っていた。咄嗟の判断が出来ない、臨機応変が出来ない、と信じていた。慣れたこと、既知のことしか対応出来ない、と思っていた。

判断は、じっくり決めて下すもの、と思っていた。選択することに慣れていなかったからだ。この無数の選択肢からこれだけを選ぶ。そういう経験が圧倒的に不足していた。
ようよう思い返せば、電車で遠出をするときは、同行の友人が律儀に乗り換えを調べてくれていて、私は彼女の後に付いていくだけだった。何かを食べるのも、どこへ行くのも、人の選んだそれを享受するだけ。自分では選ぼうともしなかった。

人に選んでもらっていると、自分では選べなくなる。
選ぶ力がなくなるのだと思う。これを選べばこの可能性があって、そのメリットデメリットも受け入れる、ということが出来なくなる。
例えばさっきの電車の選び方だと、早く着くというメリットの代わりにとんでもなく混雑する車内というデメリット、おまけに乗れないかもしれないというリスクを選ぶか、先発が出ない限り発車しないというデメリット、ただし混雑はしておらず、仮に乗り逃しても後からすぐに電車が来るというメリットを選ぶか。そういう選択が出来なくなる。ちょっと我慢しても早く帰りたいとか、混雑は嫌だから見送ろうとか、自分の判断基準で選べなくなる。ただ、他人の動きを見て、その後追いをしてしまう。そして後悔する。「ああ、こんな混雑した車内は嫌だったのに」とか「折角頑張って並んだのに乗れなかった」とか。あるいは「もっと早く帰りたかったのに、あっちの先発電車を選んでいれば」とか。後悔ばかりする。

今、ホームでかなり待ってから電車に乗って、目的地へと向かっている。特に後悔はない。どうせ待つだろうとのんびり構えていたお陰で、思ったよりも早く来たと思ったくらい。自分で選らんだことだから納得出来る。結果にも満足する。

咄嗟の、一瞬の、刹那の判断というのは多分、それまでの選んできた無数の選択肢の積み重ねなんだろう、と思う。