とり日記

日々思ったことの備忘録。

2018年8月7日

成長ってなんだろう。今まで出来なかったことが出来るようになること、だろうか。

成長した、という実感を今までしたことがない。わーい出来た、成長した!と思わずガッツポーズを付けたくなるような実感を持つのが、成長ということだと勝手に思っているのだが、そういう風になったことは一度もない。

私にとっての成長が、こんなイメージなのは、どうしてなのだろう。影響を与えたのはテレビ? それともマンガだろうか? あるいは学生時代に少しだけ関わった部活だろうか。
どれからかは分からないけれど、いつの間にやら刷り込まれている。今まで出来なかったことをやりとげる。勝てなかった相手に勝つ。それこそが成長だ、と。どこからともなく。

自分が成長したなんて一度も思ったことがない。思えない。口では言うけれど。「前は料理なんてしなかったのに今はしている。成長した!」とか「英語が前より聞き取れるようになってる!成長した!」とか、言ってみてはいるけれど。

でも全然成長したなんて思ってない。だって実感がないんだもの。

料理がほんの少し出来るようになったからって、だから何? だってほら、テレビやマンガや新聞で、ネット記事で、持て囃されるようなものではないし。ショボいでしょう。英語だってそう。ちょっとした会話や短文が聞けて読めたからって、何のものの役にもたたない。
だからつまり、私ができるようになったはずのこれは、やっぱり成長とは言えないんじゃないのって思う。思ってしまう。

自己分析するに、私は成長の実感を、他人からの反応の多い少ないに依存しているのだと思う。これは色んな人から褒められるから「成長」これはあまり反応がないから「成長じゃない」。外部刺激で判断しているのだと思う。

多分、色んなメディアとか、あるいは学校とか会社とかの社会で、私は褒めそやされる人と、褒めそやす人を見すぎたんだろう。五輪の金メダリストとか、同じ部活の県大会優勝者とか、Pixivのランキング上位者とか。彼ら彼女らに集まる称賛と、それを語る人々をよくよく見つめすぎて、だから勘違いしたんだと思う。成長とはつまり、人から讃えられることだ、と。

成長は内的なものだ、という思いはある。己の成長の如何を外的要因に頼るということが、大分いびつだというのも感じているし分かっている。

ただ、このいびつさは、今回文章化するまでははっきりと認識出来ていなかったように思う。今まで頭だけでは考えていたけれど、どうやら私の場合、思考はちゃんと文章化しないとはっきり自己認識出来ないタイプであるらしい。

文章を作るのを面倒がってしまうところがあって、だからついつい考えを脳の中だけで捏ね回してしまう。はっきり文章に表さないと理解できないタイプなのに、頭の中だけで考えを完結させようとする。なるほど、だから今まで思考が空回りする訳だ。