とり日記

日々思ったことの備忘録。

情報の取捨選択について

他人の声はよく聞こえるもの。


特に、悪いことは。批判とか、反対意見とか、デメリットとか。誰かへの罵詈雑言だとか。社会や環境への不満や、苛立ちだとか。


悪いことほどよく目に入るというのは、人間の、種族としての本能なのだろう。古来の人間が、猛獣だの災害だのの蔓延る自然の中で、いかに危険を察知して生き延びるか。ということに着目するならなるほど、悪いことに敏感である方が生存率は高くなるだろうな、と思う。


まぁただ、今の日本の場合だと、情報は良くも悪くも大量に流入しがちだ。ちょっと気になるニュースを検索すれば、関連トピックスがいくつも出てくる。それをクリックするとまた更に、そこから紐付けされたニュースが現れる。例えばアメリカと調べたら、肥満率、貧困率、エグゼクティブクラスの収入だの、日本企業との働き方の違い、だの。


あるいは咳き込みがちなのが気になるなぁと試しに検索すれば、出てくるのは咳喘息だの、肺炎だの、呼吸障害だの、果ては肺ガンだの、なんの。


あるいは、他国の生活ってどうなのだろうと調べれば、何故か日本人への嫌悪感だとか、逆に日本のここが素晴らしいだとか、日本とは何か、日本人の誇りとは、なんて話が出てきたり、する。


この、今の状況で、欲しい情報をピンポイントで引き上げるというのはかなり困難なことであって。


何よりそういう膨大な、有象無象の情報というのは、内容もそうだけれど、その質量だけでかなりの攻撃力だなぁ、と思う。
物理的な殺傷力というか、目にすると頭にずしん、とくるというか。

調べるきっかけは、ちょいとタブレットスマホの画面を触るだけだし、パソコンやガラケーなら、ほんの少しのマウス操作や、ボタン操作だけ。肉体的には大した力を使っていないんだけれども。


でも、それで入ってくる情報というのはとんでもなく多大な量だし、その上、特に目に入りやすく、記憶に焼き付くのは、怖くて危険で、禍々しくてどんよりした情報や、あるいは目に痛いくらいビビッドな色合いの、鋭い意見だったりする。


こういう情報って、思っている以上に、人を効果的に消耗させているんじゃないかなぁ、と思う。
気になることを、真面目に、ちゃんと調べているつもりで、勉強しているつもりで、なのに実際は、薄暗く不安になるような内容と、誰かの攻撃的な意見で、深く傷ついたり、落ち込んだりしてしまう。「こういうことを知らない自分はまだまだ駄目だ」なんて思ってしまったり、する。


そう考えると、何かに挑戦したい時に、ネットにしろ実際にしろ、人の意見を探して回るというのは、あまり良いことではないのかもしれない。どうしたって人は、悪い話の方が集まりやすい特性な訳だから。調べた結果やる気を削がれたり、恐ろしくなって尻込みしてしまう危険性の方が、高いのかもしれない。


話し半分に見て、聞いておく。
というのが、もしかしたらこのご時世で、必要な能力なのかもなぁ、と思ったりした。